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詩のようなものを書いています。 気が向いたときにぽつぽつと。 --------------------------------- 2018/5…久々に更新 |
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一定期間更新がないため広告を表示しています 2018.05.22 Tuesday
- - トレード コース1 『前進』6
「ちょっと、考えさせてくれ」ついさっき、そう言った啓は、よろよろと自宅に帰っていった。
トレード コース1 『遭遇』5
誰かが呼んでいる。 でも、遠い。何度も、何度も、その声はおれを呼んでいるけど、遠くて全然聞こえない。 ……ヨ。 違う。 ……ヨ! 違うって言ってんだろ。 ……起きろよ! 「……なつお!」 ぱちっ。目が開いた。 「あ…?」 また、悪夢のファンシー部屋だった。 そして傍らには、神妙な顔つきで正座している「ケイくん」。何度、目を覚ましても、これはもう夢にはなってくれそうになかった。 絶望が、自分の内から溢れている。だけど、涙は出てこなかった。横たわっていた身体を、重たく持ち上げる。だるい。けど、思っていたより身体自体は軽くて、すんなり持ち上がった。 「……あの………」 「ケイくん」が、躊躇うように口を開いた。けど、その後は何も言えないようだった。戸惑いと恐怖が瞳に宿る。 「……ケイくん、て、いうのか」 おれはちょっと諦めも手伝って、とりあえず状況を把握してみよう、という気持ちになり始めていた。たぶん、何か原因があるはずなんだ。とにかく、どうしてこんなことになったのか、それを調べなくては前に進めない。はじめは混乱するだけの頭だったが、何度も悪夢を体験して、おれはやや達観した気持ちになっていた。 「ケイ、は、名前?」 とにかく、自己紹介だ、とおれはさらに尋ねた。 「……ほんとに、わかんないのか」 「だから、聞いてるんだ」 「おれ。おれは、そう、ケイは名前。苗字はフカサワ。フカサワ、ケイだよ」 「ふかさわ、けい」 どんな字だ、と聞くと、青年は一瞬戸惑ったような顔をした。それから、手近にあったウサギのイラストが印刷されている可愛らしいメモ帳を拾い上げた。胸ポケットから、青いボールペンを取り出す。ピンクの紙の上に、さらさらと名前を書いた。 そこには、「深沢 啓」と書かれていた。 「深沢、啓」 もう一度、復唱してみる。 「おまえさ」 不意に啓が言った。 「なに?」 「さっき、なんとか、ナツオって、言ったろ。あれ、何」 「なにって、おれの、なまえ」 「ふざけんなって、おまえの名前は、チヨカだろ」 なるほど、チヨは愛称でチヨカが本当の名前なのか。変なところで、納得する。 「チヨカ。フルネームは?」 「………オウミ、チヨカだよ。忘れんなよ。おまえの名前だろ」 「どういう字?」 「あのな…」 焦れたように、啓が言いかける。「どういう字を書くんだ」言葉を重ねて、遮った。 ふざけて言ってるんじゃない。真剣に聞いてるんだ。 そう、訴えたかった。 おれの、そんな気持ちを察したのかどうかは知らないが、啓はまたペンを取ると、自分の名前の下に「近江 千代花」と書いた。 「なるほど。それで、おまえと千代花は、どういう関係なんだ?」 「どういう、って……」 「つきあってんの?」 「はあ?」 「じゃ、幼馴染だ」 「………ああ」 「で、ここはどこ?」 啓は、すっかり滅入っている、という顔をした。眉が八の字になって、目じりが垂れ下がってゆく。日焼けているから、はっきりとはわからないが、青ざめているようでもある。 だけど、本当に滅入って、絶望して、ビビってるのは、他でもないこのおれだ。 「東京?」 ちょっとずつ、聞いていくことにした。一気に聞いたって、お互い混乱するだけだ。少なくとも、啓は血のかよった人間に見えた。きっと、ここは、びっくりするほどの異世界じゃないはずなのだ。 「ああ、東京。目黒だよ」 「目黒」 なら、もといたところから、そんなに遠くない。そう思って安心しかけたが、はた、と気づく。おれは、終電近い電車に乗ったんじゃなかったっけ。でも、目を覚ましたときは朝。 ざーっと、昔見た映画のシーンが思い出される。たしか、なんとかってレンアイものだった。主人公のローカル局のアナウンサーの男が、ある一日を何回も何回もくり返すことになる話だ。男は、地方の仕事に不満があって、時間を何回もやり直せることに気づくと、気に入らないやつに悪戯したり、意中の女性を口説いてみたりと、やってみたかったことを実行していく。だけど、段々同じ時間をくり返すことが苦痛になってきて、何度も自殺を図るのだ。だけど、そのたびに時間は戻ってしまって、死ぬことも出来ない。男は、どんどん狂気じみていく。 (時間はどうなんだろう) 結局、あの映画はハッピーエンドだった。だけど、おれの頭には、気が狂いかけた男のシーンだけがフラッシュバックしていた。 (まさか、まさかだろ。これ以上、おれをどうしようっていうんだ) 「なあ」 勇気をふりしぼって、傍らの啓に声をかける。声が、震えた。だって、もし、ここが未来だったりしたら、おふくろはもういないかもしれない。 「今、平成何年?何月何日だ?」 これには、さすがに啓の脳の回路も、ショートしたようだった。多分、平静を装ってはいるが、彼も結構、いや、かなり混乱している。 「あ、頭痛い……」 本当に頭が痛いかのように、こめかみを押さえてみせる。実際、本当に痛むのかもしれない。だけど、おれだって、回路が焼き切れる寸前なんだ。 「頼む、教えてくれ。いまは平成なんだな?」 「勘弁してくれよ……本気で気分悪くなってきた。そうだよ、今日は平成××年7月3日。もうすぐ夏休みだ」 「7月3日」オウムのようにくり返した。ということは、おれが電車に乗った次の日だ。よかった。時間は動いてないんだ。身体が弛緩する。全身をしばりつけて、操り人形みたいに吊り上げていた糸が、するするとほどけていくみたいだ。力が抜けた。 がっくり脱力したおれの様子をみて、啓は「なんなんだよ」と呟いた。文字通り、頭を抱えてうな垂れる。 「おまえ、一体、何なわけ?」 「おれは……」 「千代花じゃないのかよ」 「ないよ」 「じゃ、何なんだよ」 「おれは、おれの名前は、高坂夏生。都内の大学に通ってる、大学生だ」 今度は、はっきりと、啓が青ざめているのがわかった。だけど、ここで信じてもらわなければ、話が先に進まない。ダメ押しで、字も、ピンクのメモ帳に書いてみせた。 それから、電車に乗っていて気がついたらこうなっていたこと、信じてもらいたくて、大学のこと、バイト先のこと、つきあってたけど別れた彼女の話までした。 啓は、終始黙って聞いていた。相槌も打たなかったし、ひと声も立てずに、聞き入っているようだった。 「………信じて、もらえないかもしれないけど、本当なんだ」 言うことだけ言いきって、最後におれがそう言うと、それきり部屋は熱心な勉強家が集まる図書館みたいになってしまった。 啓は、固まったように動かず、声もださない。短い時間だったかもしれない。けど、とてつもなく長く感じた。これで、もし、本気で頭がオカシくなった、なんて思われてしまったら、すごく怖いことになる。それだけは、確信があった。 「あのさ」 突然、啓が口を開いた。 「あのさ、もし、万が一、あんたの言う通りなんだとしてもさ」 「うん」 「本当のチヨは、どこにいったんだ?」 「え?」 真摯な目が、おれを貫いていた。そうだ。考えていなかった。おれが千代花になっているということは、彼女はここにいないってことで。 「どこ、って」 「チヨを、どこにやったんだよ」 まるで、責められてるみたいだ、と思った。だけど、その通りだ。千代花はどこにいる?考えろ。考えろ。カーテンを揺らしたしなやかな風が、耳をふさぐ。思考が、膨れ上がる。 自然に考えて、一番の可能性―――……。 「まさか…」 「え?」 それしかない。直感だった。けど、きっと、間違ってない。 「まさか、おれの、身体に?」 ……トレード コース1・『前進』6へつづく…… トレード コース1・『出会い』4
「うわっ」 思わず叫んで、距離をとる。布団の上なので、そんなに離れられるわけではないが、気持ちの問題だ。 「おまえ、急に倒れるから。どうしたんだよ。なんかあったのか?」 (大ありだ!) 思ったが、案の定、声は出なかった。 また勢い良くドアが開いて、さっきのオバサンが入ってくる。 「まったく、なに考えてるの。寝間着のまま飛び出してったと思ったら、玄関前で卒倒するなんて!もう、これからご近所でいい笑いものよ」 オバサンは、水の入ったコップと、何か薬のようなものを乗せたお盆を、ベッドの横に備え付けてあるボードに置いた。それから、ベッドの横に座っている好青年に笑顔を向けた。 「ケイくん、ありがとね。ほら、あんたもお礼言いなさい。ケイくん、学校休んでまであんたの面倒みてくれたのよ。ごめんねー、ケイくん。せっかくの誕生日なのに。ほんとにこの子ったら、バカなんだから」 「いいんですよ、おばさん。成り行きだし、今日はもともと半ドンだったから」 好青年は、見た目どおりホントに好青年な受け答えをして、屈託なく笑った。 「悪いわねー。それで、悪いついでにね、あたしこれからパートにいかなきゃなんなくて…。ケイくん、この子の様子見てあげてくれない?一応、薬もここに置いて行くから。ほら、その方がこの子も嬉しいだろうし。ね、チヨ」 意味深に笑うオバサンに、おれはわけがわからず、はあ、というだけだった。 それをどう解釈したのか、オバサンは満足げに頷いて「じゃあね」と上機嫌に出て行った。 後に残されたのは、おれと好青年。 しばらく何を言ったものか迷って、黙りこくっていた。好青年……「ケイくん」の方も何故だかむっつり黙っている。あんまり長い沈黙にたえかねて、おれは、あの、と切り出した。 だが、切り出したはいいが、言葉が出ない。 だって、なんて言えばいいんだ。 「なに?」 二の句がつげないでいるおれに、「ケイくん」は訝しげな視線を向ける。 「なんか、おまえ、おかしくない?なんでそんな、きょどってるわけ」 疑うような目に射抜かれて、答えられないでいると、「ケイくん」はひとつため息を吐いた。 「チヨ。なんか悩みあるなら、言えよ。ヨウスケのことだって、おれに何にも言わないで、勝手に行動するから、あんなことになったんだぞ」 ――ヨウスケ?あんなこと…?………チヨ? 何の話をしているのか、さっぱりわからない。 (あれ?) ちょっと待て。話が見えないながら、耳を傾けていて、名前の往来にはた、と気がつく。 (チヨ?) そうだ、ここで目が覚めてから、会った人間は皆、自分のことを「チヨ」と呼んだ。 「チヨ?聞いてるのか」 ――チヨ。 おれが、「チヨ」?そんなわけはない。おれは……。 「かがみ」 熱に浮かされたような声がでた。高い声だ。声が裏返っているのだろうか。 「ケイくん」が意表を突かれたように聞きかえす。 「え?」 「かがみ、どこ!」 叫んだ。嫌な予感が、全身を這い回る。 「やっぱ、おまえおかしいぞ。鏡ならそこにあるだろ」 そう言って「ケイくん」が指差したのは、さっきオバサンがお盆を置いたボードだった。お盆の横に、折りたたみの鏡がおいてある。 ひったくるようにして鏡を掴んだ。手が震える。だって。まさか。 (まさか――……) 恐るおそる、鏡を開く。きらり、と光る鏡が、おれの姿を映し出す。 明るい陽光の差し込む部屋のなか、おれは鏡を手にして固まった。 なんでだろう。暖かい光が差し込んでいるのに、寒い。寒気がする。 「うそだ……」 そこに映っていたのは、おれじゃなかった。 すこし細面で、きりりとした釣り目の少女。理性的で賢しい顔立ちだが、まったく見たことのないその少女が、鏡の中で顔面蒼白になって固まっていた。 おれなのに、おれの顔じゃない。ていうか、性別まで違ってる。 (こんなことって、あるか。どうして。なんでこんなことになったんだ) 混乱する頭で、考える。どこから、こんなことになったんだっけ。 ふいに、こととん、こととん、という音が脳裏に蘇った。 (そうだ、電車だ) 電車に乗って、徹夜でレポートして、うたたねして……。それから? そういえばあのとき、何かが大きく揺れた―――…。 「チヨ!」 肩をつかまれた。鏡を見つめたまま固まっていたおれを、「ケイくん」がグイと引き寄せる。 「どうしたんだよ、チヨ。しっかりしろよ、ホントに変だぞ」 心配そうな顔で見つめてくる。そうだ、「ケイくん」は多分、悪くない。だけど、いまのおれはそれどころではなく、人のことまで考えている余裕は無かった。おれは摑まれた肩を振りほどき、ちからいっぱいに叫んだ。 「おれは、チヨじゃない!」 大音量で響き渡ったおれの怒声に、「ケイくん」は日焼けのせいで白く浮いて見える目を、いっぱいいっぱいに見開いた。 「なに、ゆってんの……?」 気持ち悪いものを見たような顔になった「ケイくん」は、次には呆れたような口調になった。 「冗談なら、もっとうまく言えよ。笑えねーぞ。それで陽介のこと、はぐらかしたつもりかよ」 明らかに信じていない「ケイくん」に、おれはなおも不当な怒りをぶつける。 「だから!おれはチヨとかって名前じゃないんだよ。ヨウスケってやつも知らねえ。ついでに言えば、おまえのことだって、おれは知らねえ。おれは東京の大学生で、電車で、明日、実家に帰る予定で」 「わけのわかんないこと言ってんなよ!おれのこと馬鹿にしてんのか」 「わけがわかんねえのはこっちなんだよ!なんでおれが女になってんだ!おまえ誰だ!ここはどこだ!おれはどうなっちまったんだよ!」 「チヨ…?おまえ、マジでどうし――…」 「わかんねえ、わかんねえよ………」 意識が混濁する。体が前にのめって、視界が暗くなる。 「チヨ、大丈夫か。チヨ!」 「ケイくん」が叫んでいる。身体を支えてくれているのは「ケイくん」なのだろうか?強く揺さぶられて、意識が少し戻ってくる。うわ言のように呟いた。 「おれは、チヨじゃない…」 「じゃあ、誰だって言うんだよ!」 「おれは……おれの名前、は…高坂…。高坂、夏生……」 「こうさか、なつお――?」 「ケイくん」が呼んだおれの名前を最後に、意識はまた、深い奈落の底に落ちていった。 ……トレード コース1・『遭遇』5へつづく…… トレード コース1・『異邦』3
いや、まさか。夢だ。これは。なんで、おれが、こんなファンシーな部屋でピンクのカーテン握り締めてなきゃなんねえんだ。気持ち悪いものを放りだすようにして、カーテンを離す。 これは夢だ。夢なら起きなきゃ、あと二駅くらいで家についちまう。 カーテンからふらりと離れて、無意識に布団を握り締める。 どうする?そうだ。夢かどうか、手っ取り早く確かめる方法があったよな――。 古風だな、なんて冷静に考えている自分がいたけど、とりあえずそれは無視した。 思いっきり、右頬をつねる。しばらくそのまま、うごけなかった。焦りにも似た悪寒が、足先から這い登ってくる。 「痛ぇじゃん」 痛かった。痛いってことは、ここが現実だってことだ。 「うそだろ……」 嫌な汗が、ぶわっと吹き出した気がした。 「もー!いつまで寝てるの。チヨ!」 怒声とともに、いきなりドアが開いた。反射的に身体をすくませて振り向く。 「もう、ケイくん先に行っちゃったわよ。今日はケイくんの誕生日だから、って夜遅くまで準備してたんじゃないの?ホラ、早く起きて起きて。布団干すんだから!」 いかにも、お母さんといった感じのオバサンが、怒涛の勢いで部屋に踏み込むと、怒涛の勢いでまくしてた。呆然として見つめるおれのことなどお構いなしに、布団を掴みあげるとカーテンと窓を勢いよく開け放つ。 (なんだ。なにがどうなってんだ。ここはどこだ) 頭の中でうずまく疑問が、胃の中のものもかき混ぜているみたいだった。 兎にも角にも、目の前のオバサンに疑問をぶつけようと口を開くが、オバサンの大きな声がそれを見事にさえぎる。 「なに、ボサーッとしてんの!起きなさいってば、遅刻したいの?」 (か、考える時間もくれないのかよ!) 泣き出しそうになりながら、言われるまま部屋を飛び出した。見覚えのない廊下を見渡して、階段を見つけるとすぐさま駆け下りて、今度は玄関を探す。 とにかく、ここはおれの家じゃない。おれの世界じゃない。逃げなくちゃ。帰らなくちゃ。これ以上ここにいたら、いまにも頭がおかしくなりそうだった。 そんなに大きな家ではないらしく、玄関はすぐに見つかった。だが、そこにはすでに先客があった。高校生くらいだろう。いかにも体育会系な日焼け方をした好青年が立っていた。 「チヨ」 びっくりしたように、日焼けした顔がこっちを見る。 だが、かまってはいられない。出口をふさいでいる図体を、渾身の力で押しのけて、玄関から外に飛び出した。 そこは、窓から見たとおりの風景だった。 穏やかな朝の光が差し込んで、庭の木々に照りつけている。雀がその木々にとまって、ちゅんちゅんと可愛く鳴いては羽ばたく。空は青々と晴れて、僅かに浮かぶ雲が、目に痛いくらい白い。 なんの不思議もない、平和な朝の風景だった。 思わず、足の力が抜ける。へたり、と膝からくず折れた。 「うそだろ……」 おれはもう一度、そう呟いた。だけど、それでこの現実が嘘になるわけがない。 眩暈がする。視界が一回転するみたいにグルンと歪む。それから、襲ってくる吐き気と、とんでもない倦怠感――…。 わけがわからない。何も考えられない。おれの意識は、歪んだ視界と一緒に、そこでブラックアウトしてしまった。 目を覚ますと、そこはやっぱりあのファンシーな部屋だった。 (悪夢だ……) 起き抜けに、そう思わずにはいられなかった。 いや、夢じゃない。夢じゃなかった。夢じゃなかったんだ。悪夢ならまだいい。目が覚めればそこで終わりだ。だけどこれは夢じゃない。 「あ、起きたか?」 見知らぬ顔が、覗き込んだ。 ……トレード コース1・『出会い』4へつづく…… トレード コース1・『転換』2
山手線、上野行きの電車を待つホームでは、宵の口だけれど人が多い。座れるかな、と思いながら羽織った薄手のジャケットのポケットに手を入れた。今月のバイト代が入っている。 ――これで、なんか果物でも買ってってやるか。おふくろは何が好きだったんだっけ……いや、つうかそのまえに食える状態なのかな…。 そこまで考えて、やめた。飯も食えなくなるくらい悪くなってたら、どうすんだよ。 一瞬でも、縁起の悪いことを考えた自分に、腹が立つ。 変な考えを追い払おうと、頭を振りかけたとき、丁度ホームに電車が滑りこんできた。吹きつけてくる生ぬるい突風が、思考を散らしてゆく。 ――そうだ、おふくろが好きなのは、たしか八朔だった。 思い出して、やっぱり買っていこうと決めた。アパートの近くのスーパーは、確か十一時までやってたはずだ。しゅーと目の前でドアが開く。人はあまり乗っていない。手近な席に腰を落ち着けて、ついてるな、なんて思った。 こととん、こととん、こととん………。 規則的なリズムに、眠気を誘われる。今日は、大学のレポート提出の最終日で、そういえば昨日は徹夜だった。そんなことを思い出してしまうと、さらに眠くなって、おれは椅子に沈み込んだ。 それからは夢うつつに、起きたり、寝たりをくり返していた気がする。 突然がたん、と大きく体が揺れて、あ、と目を覚ました。 「な、なんだよ……」 いやに大きな揺れだった。 「地震か?」 まだ夢の中にいるような感じだ。重い頭を振って、顔を上げる。 そこは、見も知らない部屋だった。 「え…?」 おれは、いつのまにかベッドに寝ている。ふかふかで、いいにおいがした。明らかにおれのベッドじゃない。 「どこだ、ここ」 状況がさっぱりわからなくて、呆然とする。 呆けたまま、あたりを見回してみると、いやに可愛い部屋だということだけが理解できた。くまだのうさぎだの、可愛らしいヌイグルミたちがひしめきあっている。色調も全体的にピンク色で、家具は備え付けのクローゼットと、白いローテーブル、それから今おれが寝ているベッド――…。 ぼんやりと、さっきまで自分にかぶせられていただろう布団を見る。握り締めると、ふんわりとやわらかい。薄いピンクと黄色の小さな花が撒き散らされた模様が、くたりと歪んだ。 (………夢?) 混乱したまま、ベッドの脇の大きな窓に近寄る。ベッドに座り込んだまま、これもピンク色のカーテンを少し開けてみた。 朝の、まぶしくてどこか涼しい光が、目に刺さる。 外の景色は、やはり見たこともない景色だった。だけど、突拍子もない景色、というわけでもない。いたって普通の住宅街だ。ジョギングをする人、花壇に水を撒く人、どれも普通すぎる、どこにでもある風景だ。全然、異常じゃない。 ということは、異常なのは………。 「………おれ?」 ……トレード コース1・『異邦』3へつづく…… トレード コース 1 ・プロローグ「前夜」1
疲れていた。 体が重くて、ついでに目蓋も重くて、足取りもおぼつかなかった。 もう、蝉の声は消えていたが、地を這うようなべっとりとした暑さは、まだたっぷりと留まっている。 空には、星もない。太陽は隠れて、ほとんど真っ黒な雲がぼやぼやと動いているだけだ。月も見えない。 サウナだな、と思う。熱風を注ぎ込まれて、蓋をされたみたいだ。暑さが、喉のあたりから、じわじわと疲れた身体を蝕んでいく。 それでも、いつものように研究室に泊まらず、家路につこうと思ったのは、実家から荷物が届くと電話があったからだ。 久しぶりの仕送りだった。けど、急ぐ理由はそれだけじゃない。 昨日の夜。受話器の向こう、親父がくぐもった声で言った。 「母さんの容態がな、ちいとばかし悪い。明日、土曜じゃろ。都合つけて一度、顔見せに来てやってくれんか」 おふくろの具合は、おれが上京する前から悪かったが、親父がこんなふうに弱気なことを言うのは、はじめてだった。いやな予感がした。 「マジに、悪いのか」 ひとことだけ聞いたが、受話器の向こうからの返事はない。けれど、それで十分だった。 おふくろの病気は治らない。おれがまだ中学に入ったばっかりのころ、医者がそう言った。 「母さんがな、調子悪いて言うから、ムリヤリ町医者に連れて行ったんじゃ。そしたら、でかい大学病院を紹介されてな……。そこに早いうちに行けと言われた。夏生、どないしたらええ?なあ、どないしたら……」 親父は帰ってきたおれを見るなり、それだけ言った。 そして、その数日後。おれと親父は病院の一角にある小部屋に呼び出された。このときおれは、まだ希望を手離せずにいた。 まさか、おふくろが。 あんなに元気だったおふくろが、そんなすげえ病気なんかするはずがない。 ――そう思いたくて、拳を膝の上でひたすらに強く握り締めていた。 おふくろの主治医だと名乗った男は、癖なのだろうか、よれよれの自分の白衣の裾をきつく握りしめておれたちの前に座っていた。親父と他愛もない社交辞令のような挨拶をかわして、本題ですが、と黒縁の眼鏡を押し上げた。 そして、一枚の薄い紙きれを机の上にふわりと乗せると、躊躇なく、おふくろの余命ってやつを、おれと親父に宣告したのだった。 あの日から、もう七年が経つ。「余命はもって5年」といわれたおふくろは、医者の見立てに反してもう七年も病の床で頑張っていた。おれは金のかからない地元の国立の大学に行こうとしたが、おふくろのたっての希望で、おふくろの知り合いが勤めている東京の国立大に行くことになった。必死で勉強して、なんとか合格して、仕送りとバイトで一人暮らしもできるようになった。だけど、おふくろの病状は日増しに悪くなっていくばかりだった。 そういえば最近、親父からの電話の回数も増えた。親父も不安なんだろう。酒好きで頑固で意地っ張りな親父だけど、おふくろのことは本当に心底大事にしていた。 おふくろの前ではてんで猫かぶりの親父を、ガキの頃は、かっこわりい、なんて思いもしたけど、今はいい親父だなって思う。 昼下がりの日曜、からかいあって、笑いあう。そんな二人の様子を思い出して、ちょっと笑った。 ……トレードコース1・『転換』2へつづく……
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